[路端のブランチ]vol.29 五感が惑わす、旅の味。

Column

週末の夜、バーで沁みた、ロマンティックなピアノジャズ。今朝、同じ曲を聴いたら、ただ甘ったるいだけのなんともありきたりな曲だった。そのへんのショッピングモールでBGMにでもなっていそうで、とりたてて惹かれる要素がない。

この感覚は、別に音楽に限った話じゃない。人も、景色も、映画も、そして飯も。人間の五感は思ったほど都合がよくないものだ。

今、良し悪しを判断すべき対象物がある。そこに意識を集中させようとしたって、私たちの五感はあちこち「よそ見」をしている。どこで、誰と、いつその体験を味わうか…こういう付加情報が体験自体の評価を邪魔してしまう。

だから、旅先で食べた味、これは大抵の場合は思い出と共にしまっておいた方がいい。窓から見えた景色、立ち昇る異国の香り、旅疲れからくる異様な空腹感…。こういう「五感のよそ見」に惑わされて、大層旨く感じてしまう。

さて、タイを旅した時のこと。思い返すと浮かんでくる、カオマンガイ、鶏の炊き込みご飯。まさに旅の味だ。香り高い米とプリプリした鶏肉、甘じょっぱいソースはやたらとニンニクが利いている。

暑さですっからかんになった身体に氷入りのビールが滲みて。我に返ると、凄まじい空腹に襲われる。そのまさに、最高のシチュエーションで食べたから、未だに私の右脳には、「人生で食べた最も旨いもの」として刻まれているんだ。

日本に帰ってからは、敢えて食べないようにしていた。あの神々しいまでの味覚体験を現実のものにしたくないからだ。「五感のよそ見」なら、いっそそのままにしておきたい。世の中知らない方がいいこともある、って。まさにこれが当てはまる。

ところがどういうわけかついこの前、食べたのだ。あのカオマンガイを。よりによってなんてことない会社の昼休み、ランチで。 

職場のビルを出たそばにある店。先輩が珍しく昼飯へ連れて行ってくれる、なんていうもんだから。ただ、その店がたまたまタイ料理屋だって、何もわざわざ思い出のカオマンガイを食べる理由はない。

パッタイもグリーンカレーもバッポンも。一通り定番はあるんだから。これがなぜか、この日は頑なにこれまで頼まなかったカオマンガイを注文していたんだ。

変な話だけど、少し確信めいたものがあったから。食べログであとから見ても、特別星が多い店ではないし、味に関してはうろ覚え。たぶん、旨かったけれど。

そんな調子で店を出たとき、思い出の味には全くケチがついていない。なぜかって、これも五感のよそ見だった。

壁がなくて、ビニールの暖簾に簡易なテーブルとやけにカラフルな椅子。パッツパツなシンハービールのTシャツを着たオバちゃん、プラスチックのコップででてきたお冷、ラジオのたれ流しと思わしき雑音…。

何もかもが現地そのままな店だった。当時の空腹感、疲労感、漂う蒸れた臭気までが一気に蘇るくらい…。店の外観は、扉を開けたら確信に変わり、おそらくその時私は、旅に引き戻されていた。

五感はよそ見をするからあてにならないが、時折気まぐれな夢を見せてくれる。またあの店へ行こうか。しばらく旅は、いけそうにないし。

日曜日、時計を外す。
 そろそろ昼飯を食っておこうとか、もう帰ろう、とか考えることすら億劫だ。あまりに遅刻癖が治らないから、仕方なく間に合わせのチープカシオを平日だけつけるけれど、基本的には時計を見られない。類は友を呼ぶというが、周りもそんな輩が不思議に多い。

 そういう奴らと遊んだり、野暮用を済ませたりすると、自ずと昼飯はグダラグダリとしてしまう。開店前に並ばなきゃいけない飯屋に休みの日を使ってわざわざ行くなんて、僕らの頭には浮かばない。
 時間を気にせず、その時いた場所でサクッと食うメシが一番だ。  
 ivy