ivy

[路端のブランチ]vol.12 炒飯と理想主義

Column

炒飯を食べ歩くのが好きだ。同じく、カレーやラーメンだって好きなんだけど、根本的に炒飯とは愉しみ方が異なる。

カレーでうまかったなぁと印象に残る店というのは予想外の要素があることが多い。ひと捻りあるような味わいだったり、想定外の具材、強烈な香り、余は刺激を求めて食べ歩く。ラーメンの場合も似ていて、ポタージュのように濃厚なスープとか、極太面とか、なにかしらの刺激を求めている。少なくとも、私の場合は。

で、炒飯に関してはその真逆で、刺激とか目新しさとかその類は最初から一切求めていない。むしろ、余計なことをしないで欲しい。いつ食べたかも定かでない、自分の味覚だけが覚えている「理想の炒飯」を再現して欲しい、ただそれだけなんだ。実体のない理想へいかに近づけるか、というのが炒飯の追究する美学。

追いかけているのは、つまるところ、究極の懐かしさ。確実に人生で一度最高の炒飯に出会えているのだけれど、それが一体、いつ・どこで・どんな店なのかは未だ思い出せていない。

当てもないのだけれど、確実にどこかに答えは眠っているので、方法は単純明快。ひたすらピンときた中華屋を訪ね歩くしかない。看板が黄色いのは間違いないし、全体的に店構えが黒ずんでいたら尚よい。別に専門店だからいいということはなくて、メニューは多くて構わない。なんなら、中華屋ですらない、謎の大衆食堂の炒飯がイデアに一歩近づくというパターンだってある。

知り合いが古着屋を始めたといっていて、周りが駅から離れた住宅街で何もないぽつんとした辺鄙な場所だったのだけれど、近くに一件食堂だけはあったので、ここぞとばかりに炒飯にトライした。その時は案外好みのど真ん中。しいて言えば、もう少しだけ醤油味が濃い方がいい。かといってご飯が茶色くなるほどべったりしたのもこれまた違うんだ。

ハムではなくてチャーシューなのは絶対で、かつ葱は白い部分が多め、ラーメンのナルトを刻んで見た目にも鮮やかに、グリーンピースはなくていい。ここまでは合格。うーん。惜しい。何かが足りない。イデアまであと少し。

哲学者にでもなったつもりでうんうん唸りながら食べているけれど、一軒理想の店を突き留めたら、そこ以外行かなくなってしまう。それはそれでまた寂しいなあ。

見つけるためにさがしているけれど、もしかしたら探している間が一番楽しいのかもしれない。つくづく、厄介な趣味だ。

[路端のブランチ 序文]

 日曜日、時計を外す。
 そろそろ昼飯を食っておこうとか、もう帰ろう、とか考えることすら億劫だ。あまりに遅刻癖が治らないから、仕方なく間に合わせのチープカシオを平日だけつけるけれど、基本的には時計を見られない。類は友を呼ぶというが、周りもそんな輩が不思議に多い。
 そういう奴らと遊んだり、野暮用を済ませたりすると、自ずと昼飯はグダラグダリとしてしまう。開店前に並ばなきゃいけない飯屋に休みの日を使ってわざわざ行くなんて、僕らの頭には浮かばない。
 時間を気にせず、その時いた場所でサクッと食うメシが一番だ。   ivy