阿部萌子さん(写真家)
※このインタビューは2019年11月に行いました。
阿部萌子さんは、出張写真の活動や撮影会の開催、作家として作品の発表などを行うフリーの写真家です。
お話をする中で、私のコーヒーに対する考え方と萌子さんの写真への考え方が似ているなと思ったのが興味を持ったきっかけでした。
写真:Rika Koike
インタビュー:しば田ゆき
ー落ちてくる豆粒を下から眺めていた子ども時代
ー今日はよろしくお願いします。
早速コーヒーを入れていただきます。今日の豆はなんですか?
「藍花珈琲店」という飛騨高山にあるお店の豆です。友達がそこに嫁いで、今は2代目にあたる友人夫妻がお店に立っています。
ーミルはポーレックスなんですね。
夫がキャンプ好きで、結局置き場所がないので持ち運べるものにしようということでこれになりました。
お気に入りはこれです。
ー可愛い!ペーパーフィルターホルダーですね!これ置き場所に困りますよね。
そうなんですよ。袋のままおいておくのもなんかね、と思って。
ードリッパーはカリタですね?
ドリッパーは実家で使っていたものだから40年以上前のやつですね。お父さんたちがコーヒーを飲む時はドーム型のミルで豆を挽くのが子供の役割でした。私はそれをガリガリしたくて「今日コーヒー飲まないの?」といつも聞いていました。
ー所作に日常的に入れている感じが出ています。
カメラマンのアシスタントをやっていた時に、コーヒーをいれるのも仕事の一つで。当時コーヒーのいれ方を知らなくて、教えてくれる人もいなくて、コーヒー淹れるのすごく嫌で。美味しく淹れられなくて目の前で先生に「まずい」って言われたりして。だからコーヒー淹れるのすごくトラウマだったんです。でも今は夫が本当にいい人で、インスタントでいれるだけでも「不思議だよね、美味しいよね」って言ってくれるんですよ。
ーコーヒーはいつも2人分いれるんですか?
私たちちょっと邪道なんですけど、めちゃめちゃ薄くいれるんですよ。
深いりの豆が好きなんだけど、お茶みたいに飲みたいから、2人分の豆をサーバーがちゃぷちゃぷになるまで入れて、勝手に「ジャパニーズ」って呼んでます。アメリカンを通り越してジャパニーズ。笑
ー通り越すとジャパニーズになるんですね!笑
食後とかにコーヒーを飲む時に、「濃いとあれだよね?ジャパニーズにする?」みたいな会話をしています。
ー二人だけの共通語があるってとても素敵ですね。今日のコーヒーはジャパニーズですか?
今日はジャパニーズでもないけどジャパニーズっぽい…コップどれにしますか?
ー(たくさんのカップをみて)わぁ可愛い!金継ぎしてある!(選ぶ)
それはスリランカで買ったやつです。
ーいただきます。美味しい!昔ながらの喫茶店って感じ。バランスがよくてムラの無い味です。
アシスタントの時にそんな風にコーヒー入れさせられて、コーヒー嫌いにならなかったんですか?
コーヒーに罪はないじゃないですか。笑
もともと親がコーヒー好きで。幼稚園の帰りにスーパー行って、お父さんとお母さんが「今日は何にする?ブラジル?エチオピア?」とか横文字を話していたのを聞くのも面白かったし、すごく覚えているのはこの辺の(子供の)アイレベルからお母さんを見上げて、茶色く光る豆粒が並んでて、ジャーって入れるとなんか出てきて、真空にしてもらうみたいなシーン。落ちてくる豆粒を下から見てる景色をよく覚えてて。父はサイフォン※1も持ってました。
※1サイフォン:コーヒーの抽出器具の一つ。アルコールランプで沸騰させた湯で抽出する。
ーエリート育ちですね!初めて飲んだのはいつですか?
幼稚園くらいかな?
苦いからコーヒー牛乳にしてくれてガムシロップも入れてくれて。特にお父さんが作ってくれるのがすごい好きで、コーヒーに対しては好意的なイメージしかないですね。一人暮らしの時は1人用のパックで入れてましたけど、結婚してから豆で挽いて入れるようになりました。
コーヒーに対しての探究心はなくて。味の好き嫌いはあるんですけど、それ以上どうにかしようとは思わない。グラム測って、時間測って、という感じではないですね。
ー日常に即してコーヒーを入れてるんですね。私はそういう人がコーヒーいれているの好きです。
仕事をしている頭を休めたい気持ちで入れているから、出来るだけ何も考えたくない。料理を目分量で作ったりするのと同じように、3杯豆を入れたとか、どれくらい飲みたいかとか、色とかで判断してますね。あんまり考えて入れてないかもなぁ。
コーヒーってどんなに薄く入れたとしてもちゃんとコーヒーの味がするじゃないですか。あれが安心感あります。
ー「何にもしてなくても時間を重ねてくだけでこんなにドラマチックなんだ」
萌子さんにとっての写真とは
ー萌子さんは写真家さんですよね。そのお話を聞かせてください。
布がいろんな形に変化するように、自分の記録とか記憶をその先のものにしていって欲しい。というコンセプトの元、2018年から「繕い裁つ人」というプロジェクトを始めました。
これは、昨年の自分の記録(日記と写真)を元に、毎年ハンカチを制作するというもの。どんな1日のどんな瞬間に、何を思って撮った写真か。ハンカチにした写真を撮影した日の日記を封筒に入れて、作品に添えています。
記念写真の撮影会を各地でしているのですが、去年と今年の撮影会ではその作品の展示も一緒にさせてもらいました。
ベトナムへの引っ越しの前に、私の今の形と姿勢を表明しておこうと思って12月に東京で個展を開催する予定です。
ハンカチにしようと思った理由は、自分の思い出に、誰かが新しい思い出を重ねてくれたらいいな、と思って。素材は布にしようと早い段階で考えていたけど、使えるものにしたくて大判のハンカチに仕立てようと決めました。
私、作品に文章ついてるの苦手なんですよ。だからまさか自分がこんな野暮なことすると思ってなくて。文章を添えることは迷ったんですけど、この作品は写真がハンカチになった物語も作品のひとつだと。その物語が気になった人が手にとって見てくれればいいなと思って、封筒に入れて添える形にしました。
このプロジェクトが生まれるきっかけは、「撮影会と一緒に何か展示をしてもらえませんか?」と言われたことでした。
昨年から「阿部萌子と写真と服」という撮影会を5月に新潟で開催しているんですけど、それは私のウェディングドレスを作ってくれた人の誕生月で。一昨年、彼女が突然亡くなっちゃったんですね。それで、彼女の命日に彼女のことを偲ぶんじゃなくて、彼女が生まれた日に彼女が作った服を着て、写真を撮りに来てくれる人がいたらいいなと思ってその時期に彼女が拠点としていた新潟で撮影会をしようと思ったんです。それに合わせて展示をと言われた時、私も何か布にまつわるものとか、身にまとうもの、身に付けるものにしたいなと思ってハンカチに辿り着きました。
普段は、人だったり、時間だったり、光景だったり、物だったり。「あなたの残したいものを残します」というコンセプトで、出張写真屋の活動をしています。
みんなそれぞれ残したい景色があるんですよね。そのお手伝いをしたくて。
撮影しているとみんなにドラマがあって、みんなドラマチックなんです。ただ息吸って吐いて、飯食って出して、なんにもしてなくても時間を重ねてくだけでこんなにドラマチックなんだと思って。人のこういう景色を見つめていたら、「自分が毎日書いている日記とか日々撮ってる写真とか、好きな景色が多いんだよなぁ、みんなにも見てもらいたいな〜。」って、思うようになってきて。「え、でもそれで?」って、ちょっと怯んでもいたんですけど。
じゃあ、私が彼らの日常を見て「で?」って思うかって言ったら全くそうは思わないし。泣いた日もあれば笑う日もあって、うまくいく日もあれば行かない日もあって、全部が、なんのテーマもないけど、私がただこういう日々を重ねてきました、みたいなことを作品にしてもいいんじゃないかなと思って。
写真って結構コンセプト求められがちじゃないですか。でも、コンセプトがないと写真じゃないのかと言われたらそうじゃない。
ーコンセプトとかじゃないという話でしたが、写真によって見え方が全然違く見えますね。
マインドが全然違うからなのかもしれません。
ー裏打ちされた美しさがあります。
よく「いい写真」「感受性が豊か」とか聞くじゃないですか。でも何をもって誰がそれを決めるんだろうと思う。その人が撮りたいと思ってシャッターを切ってる時点でその人にとってはいい写真に決まってるから。
ものとして残ってたらいい写真しかないじゃないですか。
ー以前インスタグラムっぽい写真って話もしましたね。
こう撮っておけばいいんでしょ?みたいな写真には心が揺さぶられないけどやっぱり綺麗に撮れてるなぁとか思うし。「感受性が豊かだよね」とか言われるけど、豊かじゃない人いる?って。笑
ーわかります。
みんなそれぞれの感受性の豊かさがあって。その色が違うだけで、なんでそう言うんだろう?って。そう思うことが感受性豊かっていうんだよ。って言われると、じゃあそう思うあなたも感受性豊かだよね。ってなって、感受性豊かのキャッチボールになる。結果「みんな尊い!」というスマッシュを打つんですよ。笑
ー一同笑。
これ見て欲しいんです。
この作品は、私と夫の〝これなんでしょうゲーム〟なんです。
この写真を撮っている時、隣にはいつも夫がいて、写真を元気のない夫の前に出して「これどこだ!」「え、一人でどっか行った時?」「ブー!あなた隣にいましたー!」みたいな。
うつ病を患って何を見ても心が揺れないって言う彼に対して、励ますでもなくかける言葉が見つからなくて、「落ち着けば綺麗に見えるよ」とか言えなくて。ひたすら、あなたが隣にいるだけで同じ景色を見てる私にはこう見えてるよ。っていうので、これなんでしょうゲームをしていました。最後は1冊にまとめて、「ラブレターを書きました」と、元気になった夫に渡したんです。私もちょうど妊娠している時で。3人家族になった時、みんなで同じ空間でこの写真に囲まれたいなと思って個展を開催したんです。これも「で?」ってみんな思うだろうな〜と怯んだりもしたけど、いざやってみたらすごくたくさんの人が来てくれて。「私もうつ病で。見に行った友人から行ったほうがいいよと言われて来ました」とか言ってもらえたりもして。
自分で「で?」と思っても、そこで勝手に「で?」で終わらせてしまうのはちょっと損してるかもなってこの時に初めて思って。この体験が「繕い裁つ人」に繋がっているような気がします。
「この笑顔の先に私がいるんだと思うと真っ当な人でありたいと思うし、
その人がいい顔を見せてくれた瞬間を裏切れない」
ーこんなにいろんなタイプの展示をしているじゃないですか。そのパワフルさと言っていることの控えめさのえも言われぬギャップを感じます。エネルギーの根源ってなんなんですか?
2年前に展示したのが最後なんですけど、その時は谷崎潤一郎記念館で谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」という作品をテーマに展示をしたんですね。その時にキャプションの文章が全然書けなくて。もうできないなと思ったりもしたし、子供もいるし、日常でてんやわんやだし。作品のことを考えすぎてたら、夫に苦言を呈されて。一緒に悩んで欲しいとは思わないけど、たまに聞いてアドバイスがもらえたらとか思ってたら「君の表現活動に付き合う気はないし付き合えないよ」って言われて。ショックだし孤独だなぁって思ったけど、最後形になったところを見て、気持ちが頭を超えた瞬間があるというか。「あっ、こんなこと感じてたんだ!」みたいな、自分が書いた文章とは思えないような文章が出てきて。
個展は夫も芦屋まで見にきてくれて「贔屓目じゃなくて、初めてこの作品が欲しいなって思った」って言われました。それが成功体験かどうかというのは別として、展示としては未熟だったと思うし、至らない点も多かった。届きたい場所には手が届かなかったけど、これ以上ないくらい全筋肉を使って自分の届くところまで手が伸びた、っていう。あの爽快感が原動力になっているのはあるかもしれないですね。
できるのかな、とか。なんでやるって言っちゃったんだろう、とか。ネガティブになる時もあるけど、でもその先の景色が悪いものじゃないってことをもう知ってしまったから。それがエネルギーになっていると思います。
12月に開催する展示「form」のキャプションにも書いたんですけど、必ず事象というのは自分の中に作用をもたらしていて。アクションを起こしたら、新しい作用が自分の中に必ず起こるんだと感じています。自分で「で?」と思っていても、誰かの琴線に触れるものがあるかもしれないし。自分の温度や形を確かめるには、何かに触れないとわからないじゃないですか。その自分の形を確かめたい周期が2年くらいの感覚であるのかなと思っています。人に作品を提示して、見てもらうことによって自分の意識の形を確かめたいのかなと。
ー萌子さんは人を撮っている印象があって、人間に興味があるのかなと思っていたのですが、自分と向き合っている方が強いんですかね?
そうですね。出張写真の活動をしているから人を撮っているように見えるけど、もともとはランドスケープを撮るのが好きです。仕事を通じて人を撮ったり、その人のドラマを撮ることで、めちゃめちゃ自己肯定感が増しました。この人の笑顔の先に写ってるの私なんですよ。すごい胸が熱くなりませんか?本当にいい顔をしていればしているほど泣けてきちゃうんですよね。この笑顔の先に私がいるんだと思うと真っ当な人でありたいと思うし、その人がいい顔を見せてくれた瞬間を裏切れない。
「わー」って言って返ってくる反響音で自分の形を知るみたいな。
景色を撮ってても、人を撮るときもその気持ちは変わらなくて。写真を撮ること自体が内省しているような感覚です。すごい自分勝手な発言かもしれないけど、それが人に喜んでもらえると思うと。
ー一石二鳥ですね。
一石二鳥ですね。笑
表現することの良さだと思うんですね。コーヒー入れてても、味に出てくるじゃないですか。その1杯は一つの作品で、どんなものであれ〝今の私〟というものを飲んで美味しいって言ってくれたらすごく嬉しいじゃないですか。セルフカウンセリングに近いというか。そういう感じで写真撮ってるんだろうなーって思うし、空間を作って体感してもらおうっていうタイミングは定期的に持っておかないと、景色は広がらないんだろうなって。
ー写真家としての方向性が変わったタイミングとかきっかけって具体的にありますか?
お手伝いしていた先生が写真家の活動をしながら商業カメラマンとしても活躍されている方で。スタジオで写真撮ったり、広告とか雑誌のお仕事をされていたんですけど。その時に、私は商業的な写真を撮るということに興味がないんだと気が付きました。
ーアシスタントを辞める時くらいに明確に違うなと思ったんですか?
「阿部さんは何になりたいの?」って言われて、広告で働いている友達と一緒に仕事をしたいっていうのはあったのでそう言ったんですけど。カメラマンの方がものすごいプレッシャーとストレスと戦いながら仕事をしている姿を見て、私にはできないと思って。それなら、自分がもっとハッピーな気持ちで、この人に喜んでもらいたいっていう気持ちで写真を続けたいと思いました。
ーその先に理想とする自分がいないっていうのが見えたんですね。
すごく悩んだんですけど、写真を撮るのが好きなだけだから。自分が楽しく写真を撮れることをやろうって思って。
ー自分のものも人のものも、気持ちや思い出を扱うとか言葉を扱うことがとても上手ですね。「大切なことがあった時に頼みたいな」と思いました。技術的に写真が上手なだけな人にはそういうこと、例えば自分の傷を見せることはできないと思うので、萌子さんにこういう依頼が集まってくるのかなと思いました。
意外にみんな見知らぬ人を求めてるなっていうのは思いますね。友達とか親しい人には言えないとかありますよね。
ー私も喫茶店で人の話を聞いて、それは私から見るととてもキラキラしてるなって思ってるんですよ。そこにとても共感しました。
私もいつまで写真撮ってるかもわかんないなって思ってて。ずっと撮ってたいなと思ってるけど、他にもっと面白そうなことがあったらそっちに行くかもしれないし。
ーその身軽さいいですね。
いつまで撮ってるかわからないから。いつかと思ってるなら今いこうっていう意識はいつも持ってます。
2012.2
現在の萌子さん
さて、このインタビューから1年3ヶ月の時が経ち、萌子さんは現在ご家族の事情でベトナムに暮らしています。
ベトナムはCOVID-19の感染拡大を止められている数少ない国です。そんな中での萌子さんの暮らしとコーヒー、写真のことを改めてお伺いしました。
萌子さんは現在も写真を撮り続けていますが、「記録として」撮影することが多いそうです。これは以前のインタビューでもお話がありました。
「まだ大きいカメラを持ち歩いて街とか人とかに向けられるほど信頼関係ができていない」と言う萌子さん。「例えばベトナムの人が慣習として犬や猫を食べるんですね。それに対して(写真を撮るのは)知らない価値観に出会ったときに起こすアクションじゃないなというか、すごい乱暴だと思っちゃったんですよ。『とにかく美しいから撮りたい』と思ったならわかるけど。”物珍しさ”とか”好奇の目”で写真を撮るのは『いやお前何様だよ』って感じになる。そういう自問自答が異国に暮らし始めてから常にあります。」私もベトナムに行った時に似た光景を見て、カメラを向けられなかったことをよく覚えています。生活の中にその珍しさを感じることと、カメラを向けることは萌子さんにとっては写真家としての在り方を考える上でもひとつひとつ大切なことなのだと思いました。その視線が今、阿部萌子としてなのか、写真家としてなのかというのは線がきっちりと引けるようなことではなさそうです。
現在、遠い慣れない国で「暮らし」を続ける萌子さんは続けます。
「私すごい好きな言葉があって。「それは必ずしも遠方とは限らない」っていう。
辞書にある「旅」って言葉を説明する一番最後のところに「それは必ずしも遠方とは限らない」って書いてあったんです。」
「遠くに旅をするのは好きだったので一人でいろんなところに行ったけど、常にマインドは『それは必ずしも遠方とは限らない』を楽しむために私は今遠くに出ている。ベトナムに来て最初バスが怖くてなかなか乗れなくて。どうやって乗っていいのかどこに行くのか、システムも分からなくてめちゃくちゃ歩いてたんです。
その中で例えば『今日は日本の自宅の近所っぽい景色を探す』とか、今日歩いたここは自分の知ってるあそこっぽいかなとか。あそこの通りはブータンの匂いがしたとか。自分の中に引き出しがいっぱいあると、本当にたった1kmでもその気になれば地球の裏側まで行けちゃう。『それは必ずしも遠方とは限らない』っていうのは本当にその通りだなと思って」
「それは必ずしも遠方とは限らない」覚えておきたい言葉です。昨年からのコロナの影響で、電車に乗るのも憚られるようになってしまった日々の中で心に留めておくと私たちも世界の見え方が少し変わりそうですね。
「多分去年1年で日本語で話した人は両手で足りるっていう自信があります」と言う萌子さんは、家の中で時間がある時に「内省」をしていると言います。「一人でいる気楽さと人と会えない寂しさのコントラストが強すぎて、バランスが取れなくて自分を拗らせました。それでも、気楽で自由で一人でいる時間はやっぱり好きだなと思う。」そんな中萌子さんが取り組んだのが「反復運動」だったそうです。その反復運動には、昔から自分で入れていたコーヒーをいれる作業も含まれていると聞いて嬉しくなりました。
「私の中で反復運動って芸術だと思っていて、同じことを繰り返すことはそれだけでトランス状態になるじゃないですか。たとえば盆踊りとか。コントラストの強さでバランスが取れない時は反復運動をするようにしていて、写真を撮るもそうだし、日記を書くもそうだし、ひたすら餃子を包むとか、ひたすら編み物をする。その中で、毎朝コーヒーを淹れるということも立派な反復運動だと気が付きました。それがあって良かったなぁと思ったんですよね。変わらない味がそこにあるっていうだけで、こんなにもほっとするんだなぁって思って。もちろんコーヒーの味は違うんですけど。でも、ただ苦い飲み物があるだけで日本にいた時間に飛べるというか。『今日は日本だと思って飲もう』『今日はドトールだと思って飲もう』とかできるから、コーヒーありがとうと思います」
「旅」のお話とも似ています。
萌子さんは最近、リモートで写真を撮るということを始めているそうです。「今年は『リモートで良ければ撮りますよ』ってやりたいと思うんです。たまたま話した友達に『じゃあこのまま撮らせて』って言った時に。表情を切り取る瞬間とか、話している時の顔とか、私にしか撮れない写真がちゃんとあるんだなって思ったんですよね。レタッチ※2のしかたがどうとかじゃなくてやっぱりその人にしか見えない関係性が写るなと思って。
※2.レタッチ:写真を編集ソフトで加工すること
仕事をこの1年全くしなくてめちゃくちゃ卑屈にもなってたんです。働かなかったのが初めてで。写真を撮る人はいっぱいいるし、もうみんな私のこと忘れちゃってるんだろうなって思ったり、『私が誰かのために写真をとる意味って?』とか思ってたんですけど、やっぱり久しぶりに画面越しだけど写真を撮った時に、私にしか撮れない写真があるって気付いて。それでもいいと言ってくれる人がいるかもしれないから〝こういう状態だけど、撮りたいと思ってます〟ってことを、まずは表明することが大事だなと思ってます。2画面にしたら離れた人とも2ショット撮れますよって。」写真家が画面を撮るというのはなんとも不思議な感覚です。
「すごい嬉しかったのが、私も一緒に写れるんですよ。自分もモニターに映ってるから。対面で撮影していたら絶対できないこと。撮ってる人と撮られている人が1画面におさまるってめちゃくちゃ不思議なんですよね。」
萌子さんは現在タンブラーに自分の記録として撮っていた写真をアップしています。「先日それを夫が見てくれたんです。2019年、彼は半年間単身赴任で離れて暮らしていたんです。
去年の写真を見て「写真って眼差しなんだね。これを見ている間、僕は2019年のあなたになれた」って言われました。「写真を撮って日記をつけて記録をつけていることを、君はただの記録だよって笑うけど。それはあなたの生き様で、それが重なって物凄い芸術になるんだな」って言ってくれたんです。
どこかで『せっかくこうやって異国に住む機会があるんだから、なにか表現しなきゃ』みたいな気持ちがあったんですけど、全然そうじゃなくて。感じることはいつもあるし、それはきちんと暮らしのどこかで現れてる。それをただ記録するだけでいいんだなって思っています。」
「お母さん」になった時、萌子さんは「私というOSにお母さんという新しい機能が搭載されただけなのに、どうしてかバージョンアップを期待された」という違和感を覚えたそうです。
同じようにして「写真家」であることは彼女にとってインストールされている機能のようなもので、それは別の言い方をすると「揺るがない表現方法を保持している」という意味で私個人としては羨ましくも感じました。
阿部萌子
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